佐藤雅彦プロフィール

佐藤雅彦自己紹介   202185

 

1954年、岐阜県の6人兄弟の次男として生まれる。

小学校の頃から、算数が得意な、作文の苦手な少年でした。

1977年名城大学理工学部数学科卒業。

中学校の数学の教師を経て、システムエンジニアとして勤務。

39歳の時、洗礼を受け、クリスチャンになる。

200551歳の時、アルツハイマー型認知症と診断される。

診断後、地獄の生活を送るが、旧約聖書「わたし()の目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたとを愛している」で立ち直り、認知症の体験を全国で講演、講演回数100回以上。

2014年認知症の全国組織、日本認知症ワーキンググループを立ち上げ、共同代表に就任。

2014年認知症の体験談を綴った『認知症の私が伝えたいこと』を大月書店より出版。

趣味 絵画作成、写真撮影、個展も開いたし、自分史と画集も出版。

現在、67歳、ケアハウスで一人暮らしをしている。

ホームページ   www.sato-Masahiko.com

 

証し 「何ができなくとも 尊い」  

                     日本認知症本人ワーキンググループ理事 佐藤雅彦

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書 434

 

200510月私はアルツハイマー型認知症と診断されました。当時、私は会社勤めをしていました。

 医師から「あなたはアルツハイマー病です」と言われたときは、頭が真白になり医師に何も質問できませんでした。十分な説明がなかったので、書店や図書館にかよって、「アルツハイマー病」に関する本を片端から読みました。でも知識が増えるとともに、希望を失って行きました。なにを読んでも、「認知症になると考えることができなくなる」「日常生活が出来なくなる」「いずれは自分自身のことが分からなくなる」「意志も感情もなくなる」というような、負の情報しか書かれていなかったからです。

 

順風だった人生が・・・・

 少し振り返ってみると、私は1954年岐阜県で6人兄弟の次男として生まれました。家は兼業農家だったので田植えや稲刈り等を手伝いながら育ちました。小学校の頃から算数の得意な、作文の苦手な少年でした。工業高校の電子科から大学の数学科で数学を学びました。卒業後は中学校の数学の教師をしていましたが、向かなかったので辞めました。コンピューター関連の仕事に着くために東京に出てきたには24歳でした。プログラムを組む仕事は面白く、システムエンジニアとして充実した日々をおくっていました。

 バブル時代で景気もよく、埼玉県川口市に新築のマンションを購入したのは32歳のときでした。マンション管理組合初総会で推されて133戸のマンション管理組合の理事長に就任しました。ところが管理会社がずさんな管理をしていたので、再三改善を要求、それでも聞き入れられず、委託会社の変更することになりました。その頃から耳鳴りがして。おそらく、多忙な勤務の上に、管理組合の活動、労働組合役員の活動でストレスからでしょう。病院に行くと「突発性難聴」との診断で1週間入院。聴力も戻り復帰しました。何故か、仕事に対する意欲が戻らず、緊張して一人で生活することができず、岐阜の実家に帰ったのです。心療内科では「過労による神経衰弱状態」と言われました。

 3ヶ月ほど静養して、復帰した88年。SEの仕事は負担が多すぎるとの配慮で他の部署に配置転換、思うように頭が働きませせん、休職して翌年資材課に配転。パソコンの入荷(検品)、出荷作業をすることになりました。単調な仕事にやりがいをなくし、「自分は何のために生きているのだろう」と考えるようになったのは30代後半でした。

 ある日、郵便受けにはいっていた聖書研究会のビラに目が止まり、家の近くのキリスト教会に通うことになりました。40歳を目の前に、洗礼を決意、94年のイースターの日に洗礼を受けクリスチャンになりました。それでも生きる目的は見つかりませんでした。その後会社近くの教会に通ってみて、初心者のための聖書勉強会に参加して満足が行きました民間援助団団体ワールド・ビジョン・ジャパンを知り、活動の輪に加わりました。それで96年にタイの寒村を訪問したりまた、2003年民間援助団体日本国際飢餓対策機構を通じて支援していた、バングラデシュの子供に会いに行きました。

 一方職場では、購買課に異動。2000年に社内システムの変更に伴い、仕事量が増え、仕事がこなせなくなり2度目の休職へ。今から思えば、この頃までに認知症を発症していたのかもしれません。02年に配送グループに復職。配送先を見つけるのに時間がかたり、帰り道に迷ったり、正しく届けたかどうかが不安になることが増えました。そして05年になると、台車をユーザ先に忘れるようになり、商品が複数個あると正確に届けた記憶が不確実になりますます不安な日々に。認知症と診断を受けたのは、そんな時だったのです。絶望した私はもっと人生を楽しみたかったので病気休暇に入り、062月、25年勤めた会社を辞めました。

 

神がおられる

退職直後は職場の重圧から解放されて、教会の聖歌隊に入って歌の練習をしたり、ワールドビジョンジャパンの事務ボランティアをしたり、それなりに充実した日々を送りました。ところが、20064月に92歳の父がなくなると、急に将来の不安が募ってきたのです。アルツハイマー病の本を読みすぎたのか「料理している途中に電話がかかってきて、長話をしてるうちに、フライパンの火が燃え上がり、マンションが火事になる」といった思いが頭をよぎるようになりました。

 そして診察の時に使用するためにと入力していたパソコンが故障した時、パニックを起こして病院に行っていました。すると主治医から「男性の一人暮らしでは、介護保険のヘルパー派遣は無理」(本当はできる)とグループホームへの入居勧められたので、さらに混乱して寝込んでしまいますた。弟の判断で岐阜の実家に帰りました。実家で何日か眠り続けた後、今度は眠れなくなり、外出して気分転換をはかろうとしましたがその時、外は大雨で散歩に出かけることができず、気が狂いそうになり神に祈りました。

「愛する天のお父様。私は今、気が狂いそうです。どうか正気に戻してください。ただし、それがあなたの御心ならばそれに従います、すべてを神に委ねます。アーメン」

 するとどうでしょう。心に平安が戻り、眠ることができたのです。神様が私を尊いと言われ、そして本当に私を愛してくださっていることを実感した瞬間でした。その時に示されたのが、冒頭の成句です。洗礼から12年すべてを神になることができるようになりました。

私は自分が認知症になり、できないことも増えましたが、できることもたくさんあることに気が付きました。認知症になっても、楽しみや張り合いのある暮らしを送ることができます。私は57歳になって絵を始め、62歳から初めてピアノを習いました。できなくなることも多いですが、自分は自分です。認知症になったからこそ、他人の目を気にせず、他人と比較することなく自分の好きなことに時間を使います。

 自分を見つめる時間ができたおかげで、人生の目的を見つけました。私の場合、それは神の栄光のために生きることです。教会と聖歌隊で賛美することが、私の生きがいです。そのために生かされていると考える今日この頃です。

 人間の価値は、「これができる」「あれができる」と言う有用性で決定されるものではありません。何ができなくとも尊い存在です。多くの人に助けられて、ここまでこられたことを感謝します。私はこれからも認知症の1人として、このように考えて生きていくことを広く社会に訴えていきたいと思っています。

 そしてお伝えしたいことはは次の3点です。

1   認知症になっても、不便であるが不幸でない。

2   失った機能を数えたり嘆いたりするのではなくに、残された機能に感謝して自分の能力を信じていきる。

3   試練には、必ず脱出の道があると信じて希望持って生きる。

 

 5年前の2016814日に私の記事が 赤旗日曜版に大きく取り上げてられました。

「不便だけど、不幸じゃない」

I T機器を活用、それでも大事な「あなたの支援」

アルツハイマー型認知症と歩む   佐藤雅彦さん (62)

51歳でアルツハイマー型認知症と診断された佐藤雅彦さん(62) は約10年間工夫しながら一人暮らしを続けてきました。「不便だけど不幸ではない幸せ」と話します。認知症と共に歩むヒントは。

 

佐藤さんは1年前まで自宅マンションで一人暮らしをしていました。食事を作ることが辛くなり今は食事付きのケアハウスに移りました。介護保険の要支援1.ヘルパーと一緒に掃除をするなどのサービスを利用しています。

コンピューター会社のシステムエンジニアでした。異変に気づいたのは1999年。会議の議事録が書けなくなるなど仕事のミスが増えたのです。6年後にアルツハイマー病と診断されその後退職しました。

当時認知症に関する本を探しました。「510年後には寝たきりになる」などと負の情報や介護者のための本ばかりでした。

「早期診断、早期絶望でなく、どう生きていけばいいのか、再スタートの参考になる本が欲しい」と感じました。

最近『認知症の私からあなたへ20のメッセージ』を大月書店より執筆出版した佐藤さん。認知症になると「何もわからなくなる」などの偏見をなくしたいと思いからです。

認知症になっても残された機能がたくさんあり、豊かな人生を送ることができると伝えたかった」

診断後に工夫

買い物や散歩に出かけ5年前からは臨床美術の教室で絵を描いています。

「人生をあきらめない」ために困り事は智と工夫で乗り換えてきました。

例えば、携帯電話やタブレット端末などのIT機器の活用です。パソコンを使用していましたがこれからの操作は認知症と診断されてから、覚えました。

予定はアプリのスケジュール表に記録し出かける30分前にアラームを鳴るようにセット。行き先までの経路も携帯に電話のメモ機能に入力しておきます。

電車に乗る時も到着時間にアラームが鳴るようにすれば「降り忘れのない」と言う不安が減ります。

出会った人や訪れた場所は写真に撮っておきます。忘れても何度も見直し記憶に残します。IT機器は佐藤さんの外付けの頭脳。

それでも忘れたり失敗することがあります最寄り駅に出るだけで疲れ何もする気が起きないこともあります。

そんな時は日常であることを隠さず人の力を借りるようにいています。

忘れるかもしれないと助けを求めて起きます。首から「私は認知症です。あなたの支援を求めています」と書かれたプレートを下げています。

明るい人柄も出会った人が外出の際などのサポーターとなってくれます。

介護保険では美術館や映画館へ付き添いサービスはありません。生活を楽しむことにサービスがあれば今ある機能に維持できると思います」

質問は本人に

講演やFacebookで当事者の思いを発信しています。

「認知症になっても介護の対象としてだけではなく、みんなと協力して社会を作る。

佐藤さんの言葉は認知症の当事者だけでなく困難を抱えて生きている人は人の心に響きます。

「できない事に目を向けるのではなくできることに目を向けていけるようにしています。試練に会う事は当たり前チャンスだと思うことです。1回失敗したから明日できないわけでもない。不便だけど不幸ではない。そう割り切らないと生きられません」

そして周囲の人に理解を呼びかけています。「わからない事は本人に聞いてほしい。当事者がいるのに介護者に話しかける人がいます。理解されていないと考えている時は『ゆっくりおこたえください』言われると安心します。私たちを抜きに私たちを決めないで欲しい」

佐藤さんの夢は絵の個展を開くことです。

 

10年前とどう変わったか

1    認知症を公表して、発言する人が非常に少なかったが、認知症当事者が実名を公表して、堂々と発言するようになった。

2    喋れる人は認知症でないと批判されていたが、認知症本人発信支援が推進されるようになった。

3   認知症当事者の主張に、理解を示すようになった。

4   認知症の困りごとが知られて、忘れても良い、と言うことが理解されてきた。

5    認知症当事者をトラブルメーカーと捉えるのではなく、社会の認知症バリアによって困っている人と理解されるようになった。

6   認知症当事者には、意思決定力や判断能力も学習能力もあることが知られてきた。

7   問題行動など負の側面だけが大きく取り上がられていたが、当事者が暮らしやすい地域づくりに貢献できるなどプラスの面に光が当たるようになった。

8    病識がないと考えられていたが、十分な説明と配慮が有れば病識が持てる人がいることがしられるようになった。

9    認知症は、何も分からなくなる、怖い病気だと思われていたが、いろいろな可能性や力 があり、自分らしく希望を持って生きていくことが知られるようになった。

10   一部ではなくすべての認知症当事者が自分らしく、希望を持って生きていれる共生社会を作るために、国家戦略(大綱)として推進されるようになった。

 

 

生きるための3ヶ条

1    平凡に暮らすことは、普通ではなく、奇跡なので、不平不満を持たず毎日を感謝して生きる。

2     私たちにはわからないが、神さのご計画があるので、神様は無駄のことはされないので、どんな試練にも負けずに生きる。

3     自分には、無限の可能性が秘めているので、自分に自信を持ってちいさいことを気にせずにおおらかに生きる。

 

困りごと

1   夜眠れないこともある。

2    何もする気力がない。本も読めない。ピアノの練習する気力もない。

3    何もかもがどうでも良くなる。なにもかもが面倒くさい。生きる気力がない。

4    時間感覚がないので、食事に遅れる。バスに乗り遅れる。

5    忘れ物が多い。食堂に梅干しを持っていくのを忘れる。食堂で梅干しをたべわすれることがある。l

7    床屋に行くのをわすれる。クリーニングを取りに行くのを忘れる。洗濯していたこと忘れる。

8     外食する時、インシュリンを持っていくのを忘れる。

9    生きる張り合いがない。死にたくなる。生きる気力がない。

10   隣で食事している人の名前が出てこない時もあるp@:^。顔は思い出すが、名前が出てこないので電話をかけることができない。名前が出てこないので、メールも出来ない。

 

出来ることリスト

1       スーパーではクレジットカード、コンビニではスイカを使い、お釣りを気にせず、買い物をすることができる。

2       銀行で、ATMを使って現金を下ろしたり、送金することができる。

3       臨床美術で絵画を描くことができる。

4        喫茶店で、一人の時間を楽しく過ごすことができる。

5        洗濯が一人でできる。お風呂に一人で入れる。

6        zoomができる。

7        アプリ駅探を使用して、指定された時刻に、指定された駅に行くことができる。

8        Ipad、スマホから、文章写真をFacebook に投稿できる。

9        アラーム機能を使い、指定された時刻のバスに乗ることができる。

10      iPad. 使い、文章を書くことができる。

11     Googleカレンダーを使い、予定を管理できる。

12     Ipadを使い、美味しいお店を検索することができる。

13     Ipadで写真を撮ることができる。

14     電車、地下鉄、バスを乗り継いでクリニックまで行くことができる。

15     メールができる。

どう接してもらいたいか      2020717日 佐藤雅彦

1   いつも笑顔で接してもらいたい。同じ質問でも、毎回丁寧に対応してもらいたい。

2    わからないことは、推測でするのでなく、些細なことでも聞いてほしい。

3    体調によって、同じ事柄でも反応が違うことを理解してほしい。

4    誠意を持って、接してもらいたい。どうせできないと言う態度を取らないでほしい。

5    失敗しても、人格を否定しないでほしい。

6   ダメ出しをするのでなく、出来る方法を助言してほしい。

7    話しかける時は、正面から視野に入ってから話してほしい。

8    ゆっくり、わかりやすい話し方をしてもらいたい。

9    正直に、首尾一貫した指示を出してほしい。

10   記憶障害があっても、一人の人格のある人として尊重してほしい。

11   お互いを思いやりながら、意思疎通をはかる。

12    配慮はするがいつもと同じ特別視しない。思いやって、普通の友として付き合う。

 

まとめ 同じ質問をしても、質問者は前回質問したことを忘れているので、毎回、はじめての質問であるので、同じ回答でいいので、笑顔で丁寧に対応してもらいたい。

 

こう、接してもらいたくない。

1    面倒だと言う理由で 一時しのぎの嘘をつくこと。

2    時間がないと言う理由で、できることまで奪ってさせない。

3    幼児言葉を話す。

4    プライドを傷つける、態度、話し方をする。

5    規則を守らないと言う理由で、差別する。

6    後ろから話しかける、話しかけられていることが認識できないので必ず、正面から、視野にはいった状態で話す。

7     一度に複数の指示を出す。指示は毎回一つ、一つの指示が終わってから次の指示を出す。

8     出来るだけ待たせない。

9     意向を無視しない。

10    怒った態度、不機嫌な態度で接し無い。いつも笑顔で接する。

11    その時の気分で指示を出す、指示に一貫性がない。

12    都合の悪いことは、利用者のせいにする。

13    言い訳ばかりする。失敗したら、やっぱりと言うような色メガネで見る。

14    信頼できない。責任感がない。

15     思いやりがない。失敗をしても、人格を否定しない。適切な助言をする。

16     正直でない。約束を守らない。上から目線で指示をだす。

17     誠意か感じられない。どうせできないと言う態度を取らない。

18     言うことが首尾一貫してない。コロコロ主張が変わる。

19     言っていることと、反対の態度を取る。

20      時間にルーズ。事務的に対応しない、誠意が感じられない。

 

 

まとめ  嘘をつかない、プライドを傷つける言葉は言わない、不機嫌な態度は取らない。

 

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プロフィール2018

1954年岐阜県生まれ。

岐阜県立大垣工業高校電子科卒業後、1977年3月名城大学理工学部数学科を卒業。

中学校の数学教師を経てコンピューター会社にシステムエンジニアとして勤務。

32歳の時、133戸のマンション管理組合理事長として、

マンション管理組合活動をする。

30代後半より教会に通い、39歳の時洗礼を受けクリスチャンになる。

40代からワールド・ビジョン・ジャパンのチャイルドスポンサーシップを通じて、

毎月一人に付き4500円送金して世界の貧しい子供を6人支援する(6人で27000円)。

1996年、タイの支援チャイルドに会いにタイ各地を1週間視察。

 

200551歳の時アルツハイマー型認知症と診断される。

診断後、茫然自失し、地獄の生活を続ける。

聖書のイザヤ書「わたし(神)の目にはあなたは高価で尊い」という言葉で立ち直る。

苦難には、人間にはわからないが、神様の御計画があり、苦難に負けず、希望をもって生きることが大切であることを悟り、元気に認知症の体験を全国で講演している。

現在、講演やウェブサイト「3つの会@webhttp://www.3tsu.jp/)」を通じて「認知症とともに生きる」ことの発信を続けている。

 

201411月、大月書店より「認知症になった私が伝えたいこと」を出版。

私のこの本が2015年、日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞をいただく。

2016年5月、大月書店より「認知症の私からあなたへ20のメッセーう人ジ」を出版。

2017年9月一般社団法人 日本認知症本人ワーキンググループ副代表就任。

 すホームページ http://www.sato-masahiko.com

連絡先 メール dbxnw253@yahoo.co.jp

 

認知症基本法の制定について考える

基本的な考え。

認知症への差別、偏見をなくす法律にしたい。

“患者”として考えるのではなく、“人”としてとらえる。

基本法の目的は、認知症の予防、対策ではなく、認知症の当事者もそうでない人も、同じ基本的人権を有し、すべての国民が、認知機能の低下あるなしに関係なく、基本的人権を享受することにある。そして認知症になっても希望と尊厳をもって生活する権利を有し、認知機能の低下に関係なく分け隔てなく、相互に人格と個性を尊重しあいながら共生する社会を実現するために、認知症当事者の自立および社会参加の支援のための施策に関し、国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、認知症当事者の社会参加の支援等の施策を明らかにする。

 

認知症当事者を医学的モデルとするのではなく、社会的モデルと捉える。

社会的モデルとして捉えるのは、認知機能の障害を持つ人の社会参加阻害の原因を、個人の認知機能の障害に求めるのではなく、社会の環境側にあるとういう考え方に基づく。

 

認知症当事者は、一人暮らしであろうとなかろうと、自由に自分の住居を選ぶことができることを原則とすることが大切である。

 

認知症当事者を福祉や医療などの施策の対象だけではなく、基本的人権の権利を持つ主体として位置づけることが大切である。

 

認知症の症状があるなしに関係なく、認知症当事者は普通の人として受け入れられることが大切である。

 

認知症状があろうとなかろうと、人として、平等で差別なく、基本的人権が守られなければならない。

 

  認知症になりたくてなる人はいない。

  社会と自分の中にある「二重の偏見」が、私たちの力を奪う。

  できなくなったことを嘆くのではなく、できることに目を向ける。

  認知症になっても、新しく覚えられることがある。

  記憶が消えても、記録は残る。

  認知症にともなう困りごとは、知恵と工夫で乗りきれる。

  いまの苦難は永遠の続くのではないと信じる。

  自分が自分であることは、何によっても失われない。

  人は、何かができなくとも、価値のある尊い存在である。

  認知症になると、不便だけれど、不幸ではない。

  ちょっとした手助けがあれば、いろいろなことが楽しめる。

  「できること」ではなく、「したいこと」をすればいい。

  一人ひとりの「認知症」がある。

  私には私の意思がある。

  「してもらう」「してあげる」より、「一緒にしたい」。

                                                         

私の歩み 佐藤雅彦略年譜

1954年 岐阜県海津町(現・海津市)に6人兄弟の次男として生まれる。

1977年 名城大学理工学部数学科卒業。

1978年 中学の数学教師を経て、東京のコンピュター会社に就職。

1982年 別のコンピュター販売会社に転職、システムエンジニアしとして勤務。

1986年 埼玉県川口市のマンションを購入。マンション管理組合理事長に就任。

1987年 多忙により突発性難聴を発病1週間、入院後実家で静養。  

1988年 仕事がこなせず休職。

1989年 復職後配置転換になり、仕事への意欲をなくす。

1994年 「生きる目的」をもとめ洗礼をうけクリスチャンになる。

1999年 会社の課内会議の議事録がかけなくなるなど、仕事のミスが増える。

      体の異変に気づき、頭部MRI検査を受ける、「異常なし」と診断される。

2000年 短期記憶ができず、2度目の休職。

2002年 配送係として復職。

2003年 民間の援助団体を通じて支援しているバングラディシュの子供に行くために

      経由地のタイ国際空港でまよう。空間認知能力に障害を受ける。

2005年 配送の仕事に困難が生じ、精神科を受診、問診の後CT検査を行った結果

      アルツハイマー型認知症と診断される。

      その後、若年認知症家族会「彩星の会」を知り、それをきっかけに様々な

      支援者に出会う。

2007年 携帯電話を使いはじめる。認知症当事者の交流会に参加。

      認知症啓発の講演活動をはじめる。。                                                                                                                     

2009年 厚生労働省主催の「若年知症施作を推進するための意見交換会」に参加。

2011年 オーストラリアの認知症当事者クリスティーン・ブライデンさんとスカイプ

      を使っての公開対話(武蔵大学)。

2012年 認知症当事者の会「3つの会」代表に就任。

2013年 第6回世界精神医学会のアンチスティグマ分科会で講演。

2014年 「日本認知症ワーキンググループ」共同代表に就任。

2016年 地元の川口市で「認知症とともに歩む本人の会」を立ち上げ、代表に就任。

2017年 第32回国際アルツハイマー病協会(ADI)国際会議で、日本認知症ワーキングループ共同代表として、発表。

      警察庁との運転免許に関する日本ワーキンググループとして運転免許に関する提案書を提出。

 

 

 

 

1954年 岐阜県海津市に生まれる

1973年 岐阜県立大垣工業高校電子科卒業、

1977年 名城大学理工学部数学科を卒業。

中学校の数学教師を経てコンピューター会社にシステムエンジニアとして勤務。

32歳の時、133戸のマンション管理組合理事長としてマンション管理組合活動をする。

30代より教会に通い39歳の時洗礼を受けクリスチャンになる。

 

40代でワールド・ビジョン・ジャパンのチャイルドスポンサーシップを通じて、
世界の貧しい子供を6人支援する。

タイの支援チャイルドに会うためにタイ各地を1週間視察。

 

51歳の時アルツハイマー型認知症認知症と診断される。

診断後茫然自失、地獄の生活を続ける。

聖書のイザヤ書「わたし(神)の目にはあなたは高価で尊い」言葉で立ち直る。

以降、人との出会いと繋がりを大切にしながら、認知症に関する講演活動を始める。

 

現在、講演や「3つの会@web(http://www.3tsu.jp/)」を通じて
「認知症とともに生きる」ことの発信を続けている。
全ての人へのワン・メッセージは「認知症であっても不便であるが不幸ではない」。

2014年11月 大月書店より「認知症になった私が伝えたいこと」を出版。
2015年10月 同書の台湾語版をリリース。

2015年11月 著書が「日本医学ジャナーリスト協会賞出版部門優秀賞」を受賞。


日本認知症ワーキンググループ共同代表

認知症とともに歩む本人の会 代表
新老人の会 ジュニア会員

 
埼玉県川口市在住

趣味はiPadで写真を撮り、フェイスブックに投稿すること、旅行に行くこと。

認知症になった私が伝えたいこと


 

私は1954年(昭和29年)男女3人ずつの6人兄弟の次

 

男として岐阜県海津町(現在の海津市)に生まれました。

 

私は小学生のときから算数の得意な作文の苦手な、少年とし

 

て育ちました。(夏休みの算数の宿題は1日か2日でやり終え

 

ますが、読書感想文はなかなか書けない少年でした。)家は兼

 

業農家で、父は警察官で駐在所勤務で家にはあまりいません

 

でした。父とのとのおもいでは、父の実家の新潟の白根に法事か何かのときに、1回旅行した思い出しかありません。父は当時、愛知県の駐在所に勤務して、1週間のうち家にいるのは1日か2日しかいませんでしたので父との接点はあまりありませんでした。小学校のころから農業の手伝いをよくする手のかからない少年として育ちました。こうず(地名)のおじさんが、みかんをもてきてくれたとき、あまり多くなかたので、たったこれだけの意味で「たった」といたので父にひどく怒られた記憶がいまでも鮮明におぼえています。

 

中学時代は、兄弟一緒に、田植えや、稲刈りをした思い出しかありません。高校受験の模擬試験で校内160人中10位ぐらいになったことを覚えています。数学の成績はいつも満点に近かったことを記憶しています。

 

高校を卒業したら就職して社会にでるつもりでしたので、高校は大垣工業高校学校電子科を選びました。高校では、養老線で海津町から大垣まで電車通学をしました。思いでは、学校の実習の時間に白黒テレビを組み立てたことと、学園祭で当時(昭和47年)貴重であったテレビカメラで自分の姿が、ブラウン管に映し出されていたことを思い出します。

 

高校2年のとき父が退職して、退職金が入り大学に行くことが可能になりました。急遽高3より受験勉強をはじめて、現役で名城大学理工学部数学科に合格しました。

 

1973年(昭和48年)に名城大学理工学部数学科に入学しました。大学は家から自転車、電車、バスを乗りついて片道2時間半はかかりましたが、4年間通い続けました。大学1,2年のころは、授業料がもったいなくならないように、履修可能な科目は、すべて履修しました。数学科は授業がむつかしくて、4年間で留年しないで卒業するのは1割ぐらいでしたが、がんばって留年しなくて4年間で卒業しました。ゼミでは確率過程論を勉強しました。

 

卒業後は中学で数学をおしえていましたが、教師の職は自分には向いてないと思いやめました。その後、塾でアルバイトをしながら就職口を探しました。新聞の求人欄で大型コンピュター保守技術者いわゆるCE(カスタマエンジニア)募集の記事をみて、面接に行きました。面接の担当者がCEではもったいない、プログラム開発要員として入社しないかといわれて、東京コンピューターサービス(株)に就職しました。

 

1978年(昭和53年)5月に24歳で東京に出て行きました。東京での生活は、文京区音羽の寮から職場の日野(東京)に通うことから始まりました。職場は富士電機東京工場でそこで派遣社員として水処理課に勤務しました。水処理課では、電気回路(シーケンス回路)の設計をしました。富士電機で2年ぐらいは勤務した後、今度は蒲田(東京)の富士通の事業所でまた派遣社員として、コンピュターオペレイターとして2年間働いて、SE(システムエンジニア)として働く次の職場がみつかったので、1981年(昭和56年)12月に東京コンピューターサービス(株)を退職しました。

 

1982年(昭和57年)1月に大興電子通信()入社しました。COBOLでプログラム仕様書にしたがってプログラムを組む仕事をしました。それから千葉の小松川信用金庫で先輩について、SE(システムエンジニア)の見習いをする。はじめて一人でSEとして仕事したのは、サンアロー交易で財務会計システムを稼動させたときです。

 

その後いろいろな仕事して、印象にのこっているのは、下田にある河津建設の土木の原価管理システムを稼動させた仕事です。暑い夏の日、まわりが海水浴にいく踊り子号のなかで、ネクタイをしめて打ち合わせに行く姿は異様でした。仕事先の担当者の漆田さんはとても親切で、いつも自宅に招いてくれました。下田の仕事のとき1985年(昭和60年)バブルの時期で、下田で一番高級なパブで接待をうけました。河津建設の営業担当の佐川さんが札幌出身で、それが縁で1週間車で北海道旅行をしました。

 

1986年(昭和61年)川口にマンションを購入、第1回マンション管理組合総会が開かれる。やる気のある人に管理組合理事長をやってもらいたいとの意見で、133戸のマンション管理組合理事長に就任する。マンション管理組合の役員の一人のOんより、マンション管理会社のコスモスライフがでたらめの管理をやっているとの連絡があり、コスモスライフに改善を要求、思うように改善されない。コスモスライフに出向き、管理組合の通帳と印鑑を引き上げてくる。管理組合の通帳名義をコスモスライフより理事長名義変更する。マンション管理組合理事会で管理会社を変更すとの結論をえて、管理会社変更に動き出す。マンション臨時総会を開き、管理会社をコスモスライフより別の会社に委託するように決議する。決議内容を内容証明郵便でコスモスライフに送付して、マンションの管理を別の会社に委託する。

 

1987年(昭和62年)11月にマンション管理組合の活動、会社の労働組合の役員の活動と忙しい仕事のため、耳鳴りが起こり川口市民病院で診てもらい、突発性難聴との診断で1週間入院する。聴力が戻り仕事に復帰する。仕事がやる気がしないので、市民病院の診療内科にかかる。少し話して、イサオクリニック(市民病院の医師の派遣もとの診療内科のクリニック)に来るようにいわれる。病気が進み、興奮状態と緊張状態が続き、1人では生活できなくなり、弟に連れられて実家の岐阜県海津町にかえる。3ヶ月ほどたち、父よりいい若い者がブラブラしているのは、世間体が悪いので,川口に戻るように言われたので川口にもどる。郷里の病院での診断では、過労による神経衰弱状態といわれる。

 

1988年(昭和63年)年4月ごろ会社に復帰する。現業のSE(システムエンジニア)では、負担が大きすぎるだろうとうことで、社内システムの開発部署EDP推進室に配属されて、Iさんの下で、仕様書を作成する仕事に従事する。頭が働かなくて仕様書がかけなくて、労働組合委員長のKさんの判断で1988年(昭和63年)の年末まで休職する。

 

1989年(平成元年)1月に再度復帰して、3ヶ月間人事部で雑用をこなして、4月に資材課に配属される。資材課ではパソコンの入荷(検品)、出荷作業に従事する。

 

このころから、仕事にやりがいをなくし、「自分はなんのために生きているのだろう」と、人生の目的を真剣に考えるようになる。

 

 

 

1993年(平成5年)仕事は単調で英会話を勉強しにラドインターナショナルスクール(英会話学校)には通ってはいましたが、人生にものたりなさを感じていたとき、教会の聖書を勉強しませんかとうゆうビラが目にとまり教会に通うようになりました。94ビリーグラハム東京大会のメッセージテープを購入して繰り返し聞くうちに「洗礼を先に延ばしてはいけない、いますぐに洗礼を受けなさい」とゆうメッセージが頭から離れなくなり受洗(洗礼をうけること)を決意し、1994年(平成6年)4月3日イースタの日に川口福音自由教会で清岡牧師のもとで洗礼をうけ、クリスチャンになりました。

 

洗礼を受け教会に通うようになっても、教会に通う目的である「生きる目的」はみつかりませんでした。1999年(平成11年)7月まで6年あまり川口福音自由教会に在籍していました。S姉、Kさんにはお世話になりました。当時礼拝のあと男性、女性にわかれて交わり会をありましたが、その席上世間話はするが、他の教会員からどのようにして救われたのか、信仰を高めるにはどうしたらよいか、クリスチャンとして成長するにはどのようなことに気をつけて生活していけばよいか、どのように祈るのか牧師を含めて誰もアドバイスしてくれる人はいなく、不満がつのり1999年6月ごろから会社の近くの飯田橋にある日本キリスト教団、富士見町教会に通うようになりました。富士見町教会では、毎週日曜の礼拝の前1時間と水曜日の夜の2時間のクリスチャン初心者のための勉強会が開催されていて、満足のいく教会生活を送ることができました。富士見町教会(飯田橋)に通うのに片道1時間かかるので、日曜日の朝ゆっくりしたいと思っていたところ、川口、戸田、蕨、鳩ヶ谷の4市合同のクリスマスの夕べで川口福音自由教会の牧師が交替されていることを知り、2004年(平成16年)12月よりまた川口福音自由教会にお世話になるようになりました。

 

クリスチャンになってから(1994年、平成6年)から伝道番組をみるようになり、その中の番組「ライフライン」のなかで、世界の貧しい子供に1人月額4500円を送金して、貧しい子供たちを助ける民間援助団体「ワールド・ビジョン・ジャパン(以下WVJと示す)」の働きを知り、3人分の月額13500円を送金してその働きの輪に加わりました。

 

1996年(平成8年)3月にWVJの主催する、「タイ・チャイルド訪問の旅」で、支援チャイルドの一人であるタイの子供にあうためにタイを訪問しました。このとき、なによりも驚かされたのは、最初に訪問したミャンマーとの国境の村の小学校と首都バンコク市内の校舎や設備の違いでした。バンコク市内の小学校は私の母校とあまりかわらなかったが、村の小学校は校舎も貧弱で本棚もない生徒は、本を読むこともできず貧しさを痛感して帰国しました。日本に帰ってきて、「自分にできることは何か」と考え、親が6人の子供を育ててくれたので、自分も6人の子供を支援することにきめ、毎月27000円送金することにする。(途中で1人のチャイルドの支援が終了する。支援数が5人になるが、2000年3月までつづけ2000年4月に会社を病気が理由で休職することになり1人に減らす、2007年1月現在フィリピンの男の子を支援中。)

 

1993年(平成5年)に資材課が入居していた朝倉ビルが建替えになり、資材課はなくなり、4月に購買課に異動する。購買課では、パソコン、ワープロ、電話機の発注業務、買掛金の計上業務をこなすが、2000年(平成12年)4月に社内システムがR/3に変更されることになり、それにしたがって仕事量がふえ、仕事がこなせなくなり、(パソコンでの入力が効率的にできなくなる、伝票の2重入力がめだち仕事の作業能力がおち、作業不能になる)、2000年4月より2002年(平成14年)7月まで休職する。

 

2002年8月に営業サポート部に復職して配送グループで運転助手としてパソコン、プリンター、電話機の配送業務に従事する。

 

2003年(平成15年)3月に1998(平成10年)年2月より民間援助団体日本国際飢餓対策機構を通じて支援してきた子供に会いにバングラディシュに行くが、途中タイ国際空港でまようが、たまたま同じツアーの人と出会いことなきをえる。バングラディシュ国際空港では停電に会い、荷物がでてこなかかった。町には物乞いがあふれ、道路は舗装してないところが多く、雨が降れば道路に水が溢れ貧しさを痛感した。支援していた子供の家は、竹の柱、わらぶきの屋根、電気、ガス、水道の設備もなく、地区の小学校もとたん張りで、照明器具がなく、校舎はタイの山間部の校舎より貧しく感じられた。しかし、そこで学ぶ生徒の目は、生き生きと輝いており救われた感じで帰国する。(支援した女の子の名前はシャリファ結婚し支援が必要でなくなる、2005年(平成17年)12月まで支援する。)

 

2004年(平成16年)に秋葉原で配達先を見つけるのに時間かかるようになり、都庁の帰り迷うようになり、マンションなどに届けた場合、間違いなく指定された部屋に正しく届けたか心配になることが多くなった。2005年(平成17年)に台車をユーザー先に忘れるようになり、常に台車をわすれていないかがいつも心配になり最後には、届ける商品が複数個ある場合、正しく届けたとゆう記憶がなく心配の日々を送っていました。

 

2005年(平成17年)10月27日にアルツハイマー型認知症と診断され、運転手のSさんとの人間関係が非常に悪かったので1日置いてすぐに病気休暇に入り、2006年(平成18年)2月8日、25年勤めた会社を退職する。

 

退職後は教会の聖歌隊で歌の練習をし、金曜日はWVJで事務ボランティア(主にWVJを通じて貧しい子供を支援している支援者への郵便物の発送作業)して充実した日々を過ごしていたが、2006年4月1日に父が92歳でなくなり、急に将来のことが心配になり成年後見制度のなかの任意後見制度を勉強する。アルツハイマーの本を読みすぎたため、

 

「料理をしている途中に電話がかってきて長話をしているうちに、フライパンの火がもえあがり、驚いて外にかけだしてマンションが火事になる」

 

とゆうような、最悪の悪夢がしばしば頭をよぎるようになる。診察のときの資料のために日々の様子をパソコンに入力していたが、そのパソコンが6月8日に故障してパニックを起こし、病院にかけこむと、主治医より「男性の一人暮らしでは介護保険のヘルパー派遣は無理、グループホームに入居するよう」にと進められる。一人暮らしは無理だといわれさらに混乱して寝込むようになり、弟の判断でふるさと海津町(岐阜県)に帰る。

 

実家で1日中眠りつづけ日が何日もつづき、ついに目が覚めてねむれなくなり、その夜は雨で外に気分転換に出ることができず気が狂いそうになり、神さまに次のように祈りました。

 

「愛する天のお父様

 

私はいま気が狂いそうで、どうか正気にもどしてください。ただし、私の気が狂うことが神のみこころならば、私はそれを受け入れます。すべてを神に委ねます。アーメン」

 

そうすると、心に平安が戻り、眠りにつくことができました。このとき、クリスシャンになってよかったと実感しました。こと時からすべてを神にゆだねることができるようになりました。6月に倒れ実家に帰って、静養したおかげで唯一の絶対の神(イエス・キリスト)がいて、私は神の愛を実感しました。聖書には試練にあうことはよいことだとかいてありますが、私は倒れたおかげで、神様がわたしを本当に愛していてくださることが実感できてようになりました。

 

1987年(昭和62年)に病気して1年間休職したため、出世コースからはずれたがそのおかげで、「生きる目的」を真剣にかんがえるようになり、教会に導かれ救われて洗礼をうけ、唯一絶対の神(イエス・キリスト)に愛されていることを知りました。94年に洗礼を受けてから12年たって、寝込んでしまい自分の力ではどうしようもなくなり始めてすべてを神に委ねることができるようになりました。このような、いくたの経験を踏まえ、次の聖書の言葉は真実であることを実感するようになりました。

 

  あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実なかたですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせることはなさい、ません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。              コリント人への手紙 第一 10章13節

 

  すべての懲らしめ(又は鍛錬)は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実をむすばせます。

 

ヘブル人への手紙 12章11節

 

退職して自分を見つめる時間ができたおかげで、「人生の目的」も見つけました。私の場合それは、神の栄光のためにいきることです。具体的には、賛美を通して神をたたえることです。いまでは、聖歌隊の賛美練習と教会で賛美することがわたしの「生きがい」になりました。賛美することが、私の使命で神様を賛美するために、「私は生かされている」と実感する、今日このごろです。賛美する喜びを知り本当に今は幸せです。

 

聖歌隊にさそってくださった教会員のSさん、指導してくださるIさんに感謝です。

 

私の持病は、耳が非常に敏感になり、話し声が非常にうるさく感じられ、非常に疲れやすくなり、何もやる気力がなくなります。体調不良を起こすと、耳鳴りが激しくなります。また、持続力、集中力、注意力が低下していきます。

 

21014年(平成26年)10月日本初の認知症当事者会、日本認知症ワーキング設立、

 

共同代表に就任。

 

2014年(平成26年)11月、初めての著書「認知症になった私が伝えたいこと」を大月書店より出版

 

2015年(平成27年)11月6日、著書が日本医学ジャナーリスト協会賞、出版部門優秀賞受賞。

 

2016年(平成28年)01月15日 認知症ともに歩む会本人の会を立ち上げ、代表に就任。。

 

2016年5月 (平成28年) 「認知症のわたしからあなたへ」大月書店より出版